それに対してビクレン教授側から反論があったかどうかは聞いていませんが、FCがどういう方法であるかを伝える教授の文章は大学のネット頁で以前から公開されています。題名は "Facts about Facilitated Communication" [FCに関するいくつかの事実] です。内容を簡単に紹介してみます。FCの介助者は絶対に被介助者 (自閉症者) を導いてはならない。FCの介助者が行なうのは、人差し指を伸ばすことや震える腕を支えること、衝動的な動きを抑えることなどで、心身共に支援するが、導くことはしない。
FCの有効性を指示する実験報告は存在する。複数の集団を比較した研究もあるし (e.g. Intellectual Disabilities Review Panel, 1989; Calculator & Singer, 1992; Vazquez, 1994; Weiss, Wagner & Bauman, in press)、観察による報告もあり (Biklen, 1990 and 1993; Attwood & Remington Gurney, 1992; Biklen, Saha & Kliewer, 1995)、非介助者による体験報告もある (e.g. Eastham, 1992; Oppenheim, 1974; Nolan, 1987; and Crossley & McDonald, 1980)。これらの実験を再現することに失敗した例が報告されている理由の一つは、再現実験の方法がまずかったせいである (e.g. Wheeler et al, 1993; Szempruch & Jacobson, 1993)。
介助者が間違えて被介助者に影響を与えてしまうこともある。一人で文章をタイプできる被介助者でも、介助者の影響を受けることはあるので、その点は自覚して影響を最小限にすることが必要。ただし、影響されずにFCで意思表示をすることが不可能という意味ではない。
介助者が被介助者の能力を信じることは絶対に必須というわけではない。
証明されていない能力に対して先入観を抱く必要は無い。この方法に懐疑的な意見を表明していた人が後にFCで成功した例も多い (Schneiderman 1993)。ただし、学習者の可能性について信頼の意を表することは重要。
客観的な方法でFCを検査することもできる。被介助者をテストしてやろうというような態度を避けることが最初は大切だが、信頼関係を築いたあとなら検査も可能で、複数の集団を比較した報告もあるし (IDRP, 1989; Vazquez, 1994; Simon, Toll & Whitehair, 1994; Calculator & Singer, 1992)、観察報告もある (Attwood & Remington-Gurney, 1992)。当研究所での報告は長期的な観察によるものだが (Biklen et al, 1992; Biklen & Schubert, 1991)、もっと緻密な実験も準備中である。
FCは新しい方法ではない。少なくとも30年まえにはあったし (Oppenheim, 1974)、スウェーデン (Schawlow & Schawlow, 1985)、カナダ (Eastham, 1992)、デンマーク (Johnson, 1988)、オーストラリア (Crossley & McDonald, 1980) でもそれぞれ独自に始まっていた (Oppenheim, 1974; Schawlow & Schawlow, 1985; L. v. Board of Education, 1990; Berger, 1992)。広く行なわれるようになったのは最近のこと。
FCの被介助者が性的虐待を受けていたという容疑が介助者たちから出され、そのいくつかは事実として確認された。音声言語を使える人たちから出された例に比べてFCによって出された容疑が非常に多いという証拠は皆無。ニューヨーク州立大学保健科学センターによる調査では6件中4件で物的証拠が見つかり、事実が証明された (Botash et al, 1994)。法廷で有罪判決が出たり (Randall, 1993)、容疑者の自白という結果に終わった例もある。根拠の無い容疑や証明不可能な容疑も存在する。
虐待の容疑が本当か介助者の影響によるものかを探り出す方法はある。二人の介助者が交代で介助を行ない、双方で同じか、似た内容の文章が繰り返されれば、それが被介助者の意図によるものであると分かる。
FCを証言として認めている法廷もいくつかある。カンザス州ウィチタの例では、虐待容疑にFCで証言が出され、陪審員が有罪の評決を出した (Randall in Wichita Eagle, March 30 and 31, 1993)。ニューヨーク州最高裁では個別に証人としての信頼性を検討すべきとし (In the Matter of Luz P., Opinion & Order, January 14, 1993; Martin, 1993)、検査で信頼性を認められた (Martin, "Facilitation theory tested", The Times Herald Record, July 31, 1993)。
FCには熟練した介助者が必要。介助者を目指す者は、被介助者の肉体的問題を知り、目線を確認し、人差し指を伸ばす方法を教え、ペースを配分するなどして、段々と支援を減らし、最終的には自分でタイプできるようにしていく方法を教えていけるよう修練を積むことが大切。
親や友人も勉強して優れた介助者になれる。短期間に上手になる人もいるし、長期の訓練が必要な人もいる。最初に苦労したけれど上手になった人も多い。
FCを行なうには、被介助者が文章を読めることが必要。すでに文章を読めるようになっていてもそれを他人に見せることができなかったという人も沢山いる。実際にFCを始めた人の読解力にはさまざまな水準の差がある。文字を読めないばあい、絵を指さす方法で始めることができる。文の読み方を教える方法は、音声言語を使える人に読み方を教えるのと同じ。
FCを別の方法と併用することも可。FCと並行して音声言語の発音練習を行なうこともできる。自由に会話できなくても、これからタイプする単語を声に出して言える人や、自分でタイプした文をあとから読み上げる人もいる。タイピングがさらにうまくなる人もいる。FCと並行して、生活の作法や仕事の技能を身につけることもできる。
音声によるやりとりが難しい人の何パーセントにFCが有効かは分からない。オウム返しの多い人や指さしの困難な人でもFCを使える可能性はあるが、無作為抽出による実験は行なっていないので、自閉症者や発達遅延のある人たちの何パーセントに有効かは分からない。経験的に言えば、発話や指さしに困難のある人のほとんどで有効だと信じている。
FCは誰にでも同程度に有効なわけではない。FCが効果的でない人もいるし、効果の程度も人によって差がある。神経の状態にもよるし、介助のしかたや、学習経験、練習の機会などによっても変わる。
FCで流ちょうな筆談ができない人もいる。介助者が同じでも、被介助者や話題の興味によって文章の流ちょうさや文体の個性も出てくる。
一人の被介助者でも、介助者が変わると慣れるまでうまく行かないこともある。
介助者への信頼感が大切なので、新しい介助者に慣れるまで時間がかかることもある。
FCは自閉症やその他の症候群を完治させる方法ではない。治す方法ではなくコミュニケーションの手段である。
FCを利用している人でも、最終目標は自分一人でタイプできること。介助なしで文章をタイプできるようになった人は米国にも何人かいるし、オーストラリアには沢山いる。このことをふまえて「ファシリテーテッド・コミュニケーション・トレーニング」という名称も使われ始めている。
FCで詩を書いたり高度な思考力を示せる人でも、それ以外の行動まで自分で制御できるとは限らない。もともとの神経学的な問題は依然として存在し、排泄や拘りなどを解消できない人もいる。一方、FCの上達にともなって他の行動が改善される例もある。
FCで上手に指さすことができる人でも、他人から要求されたときに必ず同じことができるとは限らない。単純な動作でも、複雑な動作でも、それがいつでも要求されたらできるということにはならない。知能に問題がなくても、発達に困難のある人のばあい、いくつかの神経学的な問題があり、複雑な動作を困難にしている (Kelso & Tuller, 1981; Miller, 1985; Maurer, 1992)。自閉症でも (Courchesne, 1993; Bauman in ASA, 1993)、それ以外のさまざまな症候群でも (Leiner et al, 1991; Ziegler, 1990; and Bordarier & Aicardi, 1990) 小脳の異常が確認されている。小脳が複雑な運動を制御する上で重要な役割を担っている。
iRyotaの感想: 上記の文章を読む限り、FCは奇跡の詩人を生み出す手段というより、もっと常識的な教育手段のようですね。