この論文は発表当時から賛否両論を呼んでいました。数の上では否定的な意見の方が圧倒的に多かったかもしれません。いくつかの手紙は98年の『ランセット』にも掲載されました。そういった経緯に影響されたかどうかは分かりませんが、2004年の新聞記事が注目され、調査が始まったこの時期に、論文主筆のウェイクフィールド医師ともう一人のお医者さんを除く9人の共著者から論文解釈を撤回する声明が発表されました。(The Lancet の記事は有料です。)
委員会の報告と、論文共著者による解釈の撤回を発表するに当たり、編集長のリチャード・ホートン先生は、この事件の教訓としていくつかの重要点を挙げています。さまざまな研究の精度を調査する委員会を政府によって設けて欲しいこと、ワクチンの安全性に関しては二つの集団を長期的に比較するような調査が難しいため、それ以外にもさまざまなデータを揃えて検討すること、政府にとって都合の悪い証拠をインチキ呼ばわりしないこと、正面から議論すること、ウェイクフィールド医師たちの研究に対する支援は続けられるべきであることなどです。
正面から議論することをホートン先生が強調したのは、『サンデー・タイムズ』にウェイクフィールド医師を非難する記事が載る直前に放送されたテレビ討論で、MMRワクチンを擁護する先生方の多くが出席をボイコットしたからです。このテレビ討論は、MMRワクチンと腸炎と自閉症の関係を追求しているお母さんとウェイクフィールド医師たちのことを採り上げた実話ドラマ Hear the Silence に続いて放送された番組です。
調査委員会の報告の中で問題視されたのは、ウェイクフィールド医師が訴訟団体からの依頼と資金提供による研究を並行して行なっており、その研究で対象になった子どもたちの一部が『ランセット』論文で対象になった子どもたちの中にも含まれていることです。これは金銭的な問題であり、論文の客観性に影響する可能性があります。この点についてウェイクフィールド医師から編集部へ報告がなされていれば、98年に実施したような形での掲載はしなかったであろうとホートン先生は言っています (It seems obvious now that had we appreciated the full context in which the work reported in the 1998 Lancet paper by Wakefield and colleagues was done, publication would not have taken place in the way that it did)。これを、掲載したこと自体が間違っていたという意味だと理解している人も沢山いるようですが、文末を正確に読めば、掲載のしかたに問題があった、つまり、より良い形で掲載することもできたのかもしれないという意味にも理解できます。
調査委員会による報告とウェイクフィールド医師からの回答も紹介します。
報告書の要点は以下の通りです。まず『サンデー・タイムズ』の記事によってウェイクフィールド医師にかけられた容疑です。
容疑1 ウェイクフィールド医師らは、腰椎に穴をあけるなど侵襲性の高い治療を行なったことが論文に記載されていない。
容疑2 論文にあるのとは別の診断名で病院の倫理委員会に申請していた。
容疑3 この研究に参加することをウェイクフィールド医師が親たちに誘った。
容疑4 調査対象となった子どもたちは、ウェイクフィールド医師の下で訴訟の準備のために行なわれていた調査研究にも参加している。
容疑5 ランセットに掲載された論文のデータが弁護士たちに渡され、訴訟にも利用されることが編集部に申告されなかった。
容疑6 訴訟のための調査資金としてウェイクフィールド医師らは5万5000ポンドを受け取っており、金銭的な影響を受けている。
委員会の調査結果ですが、容疑1から3に関しては医療倫理に沿った適切な手続きをとっていたことが分かり、証拠不充分、濡れ衣であろうという結論でした。容疑4から6は、二つの研究で重なっていた子どもたちの数が少数であっても、事実を編集部に伝えるべきであったという結論でした。この記事は以下にリンクから有料で閲覧できます。
ウェイクフィールド医師たちからの回答も『ランセット』に載りました。こちらは金銭的な問題を否定しています。『ランセット』論文で研究の対象になった12人の子どもたちの腸を調べるように依頼された時点で訴訟の準備となる支援を受けていた子どもは皆無だったし、実際に内視鏡を使って調べている時点でも、その中の何人かの親が訴訟の準備をしていることは全く知らなかったと言うのです。従って、訴訟に関わる金銭的な問題は、このときの調査に影響しておらず、最初の調査はあくまで客観的な立場で行なわれたとウェイクフィールド医師は主張しています。
このあと、別ルートで訴訟関係の団体から診察・調査の依頼を受けますが、対象になる子どもたちの一部が重なっていることは2004年になるまで知らなかったと言います。訴訟団体からの研究資金も病院を通して正式に依頼されたもので、同様の医学的調査はほかの大学でも行なわれ、専門誌にも掲載されているそうです。このときに調べたのは、対象となる子どもたちの腸組織に麻疹のウイルスが存在するかどうかという点のみであり、裁判がどう展開するかなどに興味はないとウェイクフィールド医師は述べています。つまり、二つの研究は並行して行なわれていたわけではないし、訴訟のための証拠作りに協力したことが、それより前に行なっていた研究に偏ったものにする可能性はなかったというのです。
論文が訴訟に利用されたことですが、論文の内容はすでにいくつかの学会や講演会などで発表され、多くの人に知られていたものであり、これを弁護士に渡す行為に問題はないはずだと述べています。
ウェイクフィールド医師はこの事実を秘密にしていたわけではなく、論文掲載から3ヶ月後の『ランセット』にその経緯を綴った手紙を投稿し、掲載されたとも述べています。その後6年間、これを問題視する声は編集部から聞かれなかったそうです。
それに加えて、訴訟団体からの資金による研究がほかの大学でも実施されており、BMJのような専門誌に掲載された論文もあることを繰り返し述べています。
論文解釈の撤回声明は、もともと論文に書かれていない解釈を撤回しているだけで、論文が間違っていたわけではないと言います。
子どもたちの腸に何かが起きていると主張する親たちの声に対してほとんどの医師たちが耳を傾けず、実際に腸を調べることもなく、ミュンヒハウゼン症 [虚言] を疑われた親さえいたのが98年までの状況だったそうです。自分が調べてみたら本当に腸炎が見つかった経験をふまえ、親たちの声には真剣に耳を傾けるべきだとウェイクフィールド医師は主張します。
2004年に起きたこの事件は多くの新聞で報道され、その多くは、ウェイクフィールド医師が金目当てに怪しげな研究をして世間を騒がせているような印象を与えました。今年になって、ウェイクフィールド医師に対する訂正と謝罪の文章を発表した新聞もあります。ネット上で公開されているのはケンブリッジの新聞です。この記事は無料で閲覧できます。